経験者が直面する「教えたい」誘惑：コーチングで育む「引き出す」力
はじめに：経験という強みと「教えたい」という気持ち
長年の経験を積み重ねてこられたあなたは、部下や後進、あるいはクライアントといった他者が、少し立ち止まっている様子を見た時、「こうすればもっとうまくいくのに」という思いから、ついアドバイスを送りたくなることはありませんでしょうか。豊富な経験から導き出される示唆や解決策は、確かに価値ある財産です。それを分かち合いたいという気持ちは、他者への貢献意欲の表れであり、リーダーや指導者として自然な感情かもしれません。
しかし、コーチングのアプローチにおいては、答えを与えること以上に、相手の内側から答えや可能性を引き出すことが重視されます。この「教えたい」という衝動と、コーチングにおける「引き出す」という関わり方の間には、時に経験者ならではの葛藤が生じることがあります。
この記事では、経験豊かなプロフェッショナルが直面しやすい「教えたい」という誘惑に焦点を当て、それを乗り越え、コーチングの力で他者の自律的な成長を促す「引き出す力」をどのように育むかについて考察してまいります。
なぜ経験者は「教えたい」誘惑にかられるのか？
私たちが長年培ってきた経験は、多くの成功や失敗、そしてそこから得られた学びの集積です。それは、特定の状況に対する「最適な解」や「避けるべき落とし穴」といった、確度の高い情報を含んでいます。他者が同じような壁にぶつかっているのを見ると、その困難を避けさせたい、より効率的な道を示してあげたい、という善意から、自然とアドバイスの言葉が出てくることがあります。
これは決して悪いことではありません。経験に基づく助言は、相手にとって道標となり、時間を節約し、大きな失敗を防ぐ手助けとなる場合があります。特に、緊急性の高い状況や、相手の経験が浅い場合には、有効な手段となり得ます。
一方で、この「教えたい」という気持ちが強すぎると、以下のような側面を生む可能性も考えられます。
- 相手の思考停止: 答えを与えられすぎると、自分で考える機会を失い、自律的に問題解決する力が育まれにくくなります。
- 内発的動機付けの阻害: 他者から与えられた答えは、自分で見つけ出した答えほど腹落ちせず、行動へのエネルギーに繋がりにくいことがあります。
- 依存関係の構築: アドバイスを求める習慣がつき、常に指示を待つ姿勢になってしまうリスクがあります。
- 経験知の押し付け: 自身の経験が必ずしも相手や現在の状況にフィットするとは限らないにも関わらず、過去の成功体験を唯一の正解として押し付けてしまう可能性があります。
これらの側面は、コーチングが目指す「クライアント自身の能力と可能性を最大限に引き出し、自律的な行動を促す」という目的とは、少々方向性が異なる場合があります。
「教える」から「引き出す」へのシフト：コーチング的アプローチ
コーチングにおける「引き出す」アプローチは、相手の中に既に答えや解決策のヒントがある、あるいはそれを自分で見つけ出す力があると信じることから始まります。その上で、効果的な「問い」と「傾聴」を通じて、相手が自身の内側にあるリソースに気づき、考えを深め、行動計画を立てるプロセスを支援します。
経験豊富な私たちにとって、この「引き出す」アプローチへのシフトは、自身の「経験知」との向き合い方を根本から見直す機会となります。経験知は、決して無価値になるわけではありません。むしろ、コーチングの質を高めるための強力な「隠し味」となり得ます。
例えば、相手が語る状況を聞きながら、自身の経験と照らし合わせることで、より本質的な問いを立てるための洞察を得ることができます。「かつて私が似たような状況で〇〇という点に気づいたことがあったのですが、今お話しいただいている中で、△△さんにとって特に気になる点はどこですか？」のように、自身の経験を直接の「答え」として提示するのではなく、「問い」を生み出すための補助線として活用することが考えられます。
「アドバイスしたい衝動」を乗り越える実践ヒント
では、具体的にどのようにして「教えたい」衝動を抑え、「引き出す」力を育んでいけば良いのでしょうか。以下にいくつかの実践ヒントを挙げます。
- 「聞く」姿勢を意識的に作る: 相手の話を遮らず、まずは最後まで聴くことに集中します。沈黙を恐れず、相手が自分の考えをまとめる時間を大切にします。「アクティブリスニング」のスキル（相槌、うなずき、要約、感情への共感など）を意識的に活用します。
- 効果的な「問い」のストックを持つ: オープンな問い（例：「具体的にはどのような状況ですか？」「そのことについてどう感じていますか？」「他にはどのような選択肢が考えられますか？」）を積極的に使います。「はい」「いいえ」で答えられるクローズドな問いや、誘導的な問いは避けるようにします。自身の経験から「もしあの時こんな問いかけがあったら、もっと早く気づけたかもしれない」と感じるような問いを蓄積するのも良い方法です。
- 「私が正解を知っている」という思い込みを手放す: 自身の経験はあくまで数ある可能性の一つであると認識します。相手の状況や価値観は自分とは異なることを理解し、相手にとっての最善解を共に探求する姿勢を持ちます。
- プロセスを信じる: 相手がすぐに答えにたどり着かなくても焦りません。自分で考え、気づきを得るプロセスそのものが、相手の成長にとって重要であると信じ、根気強く伴走します。
- 自分の感情に気づく: 「教えたい」という衝動の背景にある自身の感情（例：助けになりたい、早く解決させたい、自分の経験を認められたい）に気づくことも重要です。その感情に振り回されるのではなく、それを理解した上で、より建設的な関わり方を選択できるように努めます。
- フィードバックを求める: コーチングの実践について、信頼できる同僚やメンター、あるいは自身のコーチからフィードバックをもらいます。「アドバイスが多くなっていないか」「問いかけは効果的か」といった視点で振り返り、改善点を見つけます。
経験知が「引き出す力」をさらに深める
「教える」ことから「引き出す」ことへのシフトは、経験豊かなプロフェッショナルにとって、自身の経験知を新たな形で活かす道を開きます。一方的に知識を伝達するのではなく、相手が自身の経験や知識、そしてまだ気づいていない可能性と向き合うのを助ける役割を担うことで、貢献の形が深まります。
私たちの豊富な経験は、相手の言葉の裏にある文脈を理解したり、潜在的な課題を見抜いたり、より適切なタイミングで的確な問いを投げかけたりするための、強力な基盤となります。それは、単なるテクニックの習得を超えた、人間的な深みのあるコーチングへと繋がっていく可能性を秘めています。
まとめ：新たな貢献の形を求めて
長年の経験は、私たちにとってかけがえのない財産です。それを他者に還元したいという気持ちは、素晴らしい貢献意欲です。しかし、その貢献の形を「教える」ことから、コーチング的な「引き出す」アプローチへと広げることで、相手の自律性を尊重し、内発的な成長を促す、より大きな価値を生み出すことができます。
「教えたい」という誘惑に気づき、それを乗り越えて「問いかけ」「傾聴」に徹することは、経験者だからこそ直面する挑戦であり、同時に、自身の経験知を新たな高みで活かす機会でもあります。この「引き出す力」を磨く旅は、私たち自身のリーダーシップを深め、他者との関わり方を豊かにし、そしてコミュニティ全体での学び合いを活性化していくことでしょう。
このサイトが、経験豊かな皆さんが自身の「教えたい」衝動と向き合い、コーチングを通じて「引き出す力」を育み、さらに深いレベルでの貢献を実現するための、探求と共有の場となることを願っております。