「知っている」から「引き出す」へ:コーチングで深める経験者の「聴く力」
長年の経験を持つプロフェッショナルの「聴く力」
企業研修講師や元役員といった経験豊富なリーダーシップのプロフェッショナルにとって、「聴く力」はコミュニケーションの根幹をなすスキルであることは広く認識されているでしょう。しかし、長年のキャリアを通じて培われた豊富な知識や成功体験は、意図せずとも「聴き方」に独特のフィルターをかけることがあります。
例えば、「この話は以前にも経験した」「この状況ならこうすればうまくいく」といった内なる声が、相手の話を最後まで、ありのままに聴く前に結論を急がせたり、自分の経験に基づいた助言へと誘導したりする傾向を生むことがあります。これは、効率的な問題解決や知見の共有においては強力な強みとなり得ますが、相手の内面にある答えや可能性を引き出すコーチング的な関わりにおいては、時に障壁となる可能性も孕んでいます。
コーチングにおける「聴く力」は、単に相手の話を聞くこと以上の意味を持ちます。それは、相手の言葉の奥にある感情、価値観、そしてまだ本人も気づいていない可能性に意識を向け、評価や判断を保留しながら、深いレベルで相手を理解しようとする姿勢です。経験豊富な私たちだからこそ、意識的にこの「聴く力」を深化させることが、自身のリーダーシップをさらに高め、他者の自律的な成長を支援する上で重要になると考えられます。
経験が「聴く力」に与える影響
私たちの経験は、世界を理解するための強力なレンズとなります。過去の成功や失敗から学び、効率的なパターン認識や、将来予測の精度を高めることができます。しかし、このレンズが曇る時、あるいは色眼鏡となる時、相手固有の状況や感情を歪めて捉えてしまうリスクが生じます。
- パターン認識による早合点: 相手の話の冒頭で「ああ、これは〇〇のパターンだ」と認識し、その後の話をパターンに当てはめて解釈してしまう。
- 経験に基づく結論への誘導: 自分の経験から導き出された「正解」に相手を導こうとし、相手自身の思考プロセスや感情の探求を妨げてしまう。
- 「〜すべき」「〜するべきではなかった」という評価: 相手の行動や状況に対し、自身の基準で無意識のうちに評価を下し、それが聴く姿勢やその後の関わりに影響してしまう。
これらの影響は、悪意なく、むしろ相手のためを思って生じることがほとんどです。しかし、コーチングの目的が「答えを与える」ことではなく「相手の中から答えを引き出す」ことにある以上、これらの経験によるフィルターを自覚し、意識的に外す努力が必要になります。
コーチングにおける「聴く力」を深める実践
では、長年の経験を活かしつつ、コーチング的な「聴く力」を深めるには、どのような実践が有効でしょうか。これは、これまでの「教える」「導く」というアプローチに加え、「共に探求する」「引き出す」という新たな筋肉を鍛える作業と言えるかもしれません。
1. 意図的に「沈黙」を受け入れる
経験者は、沈黙を「間延び」や「思考停止」と捉えがちです。つい、間を埋めるために話したり、解決策を提示したりしたくなります。しかし、コーチングにおいて沈黙は非常に重要です。相手が自身の内面と向き合い、考えを整理し、言葉を見つけるための貴重な時間だからです。相手の沈黙を恐れず、辛抱強く待つ意識を持つことが、相手の深い思考を引き出す第一歩となります。
2. 相手の言葉の「感情」や「意図」に耳を澄ませる
話されている内容だけでなく、声のトーン、表情、言葉選びのニュアンスなどから、相手の感情や、その言葉の裏にある意図を読み取ろうと試みます。「なぜ、今その言葉を選んだのだろう?」「この話題に触れた時、彼の声のトーンが変わったな」といった微細な変化に気づき、それに対して好奇心を持って問いかけることが、表面的な会話に留まらない深い理解につながります。
3. 自身の内面の「反応」に気づく練習
相手の話を聴きながら、自分の中で何が起きているかに意識を向けます。「また同じ失敗をするのではないか」「自分ならこうするのに」といった内なる声や感情が浮かんでくることに気づく練習です。これらの反応は、あなたの経験に基づいた自然なものですが、それに気づき「これは私の反応であり、相手のものではない」と客観視することで、反応に流されずに相手の話に集中できるようになります。瞑想やマインドフルネスの実践が、この自己認識を高める助けとなることがあります。
4. 「それは具体的にどういうことですか?」「もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」といった探求型の質問を組み合わせる
自身の経験に基づいた示唆を与えたくなる衝動を抑え、相手の話をさらに深掘りするための質問を投げかけます。相手の言葉をそのまま受け止め、「そこを掘り下げると何が見えてくるだろう?」という好奇心を持つことが大切です。質問は、あなたの知識を披露するためではなく、相手の思考を促進するためにあります。
実践事例:部下とのキャリア面談
ある時、長年チームを率いてきたA部長(50代)は、部下のBさん(30代)とのキャリア面談で、いつものように自身の経験に基づいたアドバイスをしようとしていました。Bさんのキャリアパスについて、A部長は過去の自身の経験から「次は〇〇のスキルを磨くべきだ」「うちの部署では△△の経験が必須だから」といった具体的な方向性を示唆しようとしました。
しかし、コーチング研修で学んだ「聴く力」を思い出し、一旦口を閉じてBさんの言葉に耳を澄ませることに意識を向けました。Bさんが自身のキャリアについて語る中で、「正直、このまま今の延長線上で良いのか少し迷いがあって」「他の部署で働く同期の話を聞くと、少しうらやましく感じることもある」と、小さな本音を漏らした時、A部長はすぐにはアドバイスせず、「うらやましく感じるというのは、具体的にどのような点ですか?」と問いかけました。
この問いかけに、Bさんは最初は戸惑いながらも、自身の価値観や本当に興味のある分野、現在の業務に対する率直な思いなどを語り始めました。それは、A部長がこれまでの経験から想像していたキャリアパスとは少し異なるものでしたが、Bさん自身の内側から出てきた、非常にリアルな声でした。A部長は、評価や判断を挟まず、ただただその声に耳を傾け、時折「他には何かありますか?」「その時、どんな気持ちでしたか?」といった質問を静かに投げかけました。
面談が終わる頃には、Bさん自身がこれから取り組むべきこと、そして何にエネルギーを注ぎたいのかについて、以前より明確なイメージを持つことができていました。A部長は、自身の経験に基づく「正解」を示すのではなく、Bさん自身の「引き出し」を開ける手伝いができたことに、新たなリーダーシップの手応えを感じたと言います。
経験を活かしつつ、聴く力を深化させることの価値
経験豊富なプロフェッショナルがコーチング的な「聴く力」を磨くことは、自身の成長だけでなく、他者や組織全体にも大きな価値をもたらします。
- 他者の自律と成長の促進: 答えを与えるのではなく引き出すことで、相手自身の考える力、問題解決能力、自信を育みます。
- 深い信頼関係の構築: 評価されない安心感の中で、相手は心を開き、本音で話せるようになります。これにより、より強固な信頼関係が築かれます。
- 組織内の多様な声の受容: 経験によるフィルターを外すことで、これまで見過ごしていた新しい視点や革新的なアイデアに気づく機会が増えます。
- 自身のリーダーシップの変革: 「教えるリーダー」から「引き出すリーダー」へのシフトは、自身の役割を再定義し、キャリア後半における新たな可能性を開きます。
結論
長年の経験は、私たちの強力な財産です。しかし、その経験を最大限に活かしながら、同時に他者の可能性を引き出すためには、コーチングにおける「聴く力」の深化が欠かせません。「知っている」ことを伝えるだけでなく、相手の内にあるものを「引き出す」聴き方を意識的に実践することで、あなたのリーダーシップはさらに豊かなものとなるでしょう。これは、自身の成長の旅であり、他者へのより深い貢献へと繋がる道程であると信じています。